先代 義次 長崎保高
明治後期、東京・菊川町(錦糸町~両国の間)に岩崎氏(国義)が親方として製造していた竹刀屋があった。そこに、長崎万次郎(初代義次)が弟子入りしたのが始まりである。当時、岩崎氏の下に10名以上の弟子がいたとされるが、その中に後に名人と言われる竹刀職人の寿・清忠がいたのである。
感謝状その後、長崎万次郎が独立し、長崎保高(二代目義次)が昭和7年、15歳の時に弟子入りし、修業を経るが、戦争が始まり、一時閉店となった。
終戦後、保高が独立し開業したのである。
また保高(二代目義次)は昭和45年頃、台湾へ竹刀の技術指導者として渡り、今日の竹刀産業の礎となった人物であるといえる。
昭和48年開業
長崎保高(二代目義次)の長男高志が、防具製造・販売を始める。